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森林書房『遊歩百山』10号に書いたものです。我が母校の裏山でありながら、『ケツ山』という名前でしか知らず、『文台山』なんて正式な名前があることを知ったのは、卒業後ずいぶんたって、横山厚夫さんの本を読んでからでした。


                                                                   文台山

文台山。富士急行線の谷村町、十日市場間。または中央高速、谷村PA付近から南東方向を眺める時、およそ尻、いや山に興味のある人はこの山を見落とすことはないだろう。まるでコニ−デ型火山のような左右の秀麗な稜線の頂点が実に美しい尻になっている。日本百尻名山というのがあれば、必ず入選するだろう(誰も選ばないか)。

実は、この山の麓にある都留文科大学という学校がわが母校である。大学の講義室からは、グラウンドの向こうの前衛の山の稜線上に、ポッカリとそのきれいな尻ををもたげているのが見える。およそこの大学の男子学生で、講義そっちのけで、その姿に見とれつつ、よからぬ妄想をたくましくしなかった者はいまい(お前だけだよ、バカ)。

なにはともあれ、この山の麓での6年間(?)今思えば、冷や汗三斗かくようなバカ騒ぎの連続だった。あれから幾星霜。わが恋せし乙女今いずこ。だからこの山を見ると、過ぎ去りしわが青春の日々(サカリのつ いてた頃)を思い出して、胸がキュンとしてしまう。もっとも、この山 が文台山なんて名前だったのを知ったのは、卒業して随分たって、横山厚夫さんの本(一日の山・中央線私の山旅、実業之日本社刊)を読んでからで、そんな正式な名前があるとは知らなかった。山のクラブの先輩からも、あれはケツ山というのだと教えられたし、地元の人もそう呼んでいるのではなかろうか。僕にとっても、あくまでこの山はケツ山でなければならない。ただし、大学時代は遠くの山ばかり気になって、学校の裏山に登ろうなどとは、露ほども思わなかったし、いつしか山からも遠ざかってしまった。卒業後も山梨に残って仕事をしていたが、あるきっかけで俄然地元の山に登りはじめた。山に登らなくなって8年たっていた。

そんな頃、前述の横山さんの本も手に入れ、ケツ山が文台山という名だと知った。山登りを再開して3つ目の山に選んだ。しかし勇躍出かけたものの、文字通り山勘が鈍っていたのだろう。ひどい薮を漕いだあげく、大学のすぐ裏の山に登ってしまい、惨敗に終わった。そこはしかしケツ山のいい展望台で、昼寝の楽しめそうな赤松の平だった。昭和62年10月の事だ。そして翌年の春、ひとりその山頂に立った。細野からのピストンだった。道標ひとつなかった。

さて平成5年の秋、休日となると雨降りで、欲求不満も限界に達していた。明日が休日という日、予報ではなんとか午前中はもつものの、午後からは雨。なんとか午前中に勝負のできる山はないかと物色していたら、妻がまだケツ山に登っていないことを思い出した。年こそちがえ、妻も同窓生である。母校の裏山に登っていないとは、その貧弱な山歴としても、画龍点睛を欠くというものだ。文台山から尾崎山へは、僕も未体験である。

どんより曇って今にも降りだしそうだ。都留市役所の駐車場の片隅に車を置かせてもらって、すぐ隣の谷村町駅前から細野までタクシーを飛ばした。細野の文台山登山口へ、と言っただけで通じるのにびっくり。

早くもフロントガラスにポツリポツリきている。御岳神社の鳥居のそばに立派な指導標が立っていた。神社を抜けるとすぐに林道に飛び出す。林道沿いにしばらく歩くと、右に指導標があって林の中へ山道が分かれた。主尾根に取りついた頃、雨が本降りになってきた。僕は雨具の上衣を出し、妻は傘を出す。今更戻るわけにはいかない。

雲の切れ間に時々下界が顔を出す。岩混じりの急登が始まってまもなく東峰に到着。小広い雑木林だ。いよいよ尻の割れ目の部分に降りていく。何もない(あたりまえか)。三角点のある西峰もやはり雑木林で、東峰より多少広い感じがする。切り開きのある方向には小野や法能の集落が見える。前回は天気がよく、木の葉が出る前だったこともあって、林越しに大学が小さく見えたが、今回はあいにく霧で見えなかった。

滞在もそこそこに、雨具の上下とスパッツを着け出発。ここから尾崎山へははじめてだ。急な斜面をずり落ちるように進む。ところどころに赤テープがある。尾崎山から東南に派生する尾根の末端にある930m峰の直前で踏み跡を失ったが、そのまま頂上まで登り切った。本来の踏み跡はこの峰を南からまいて、鞍部に出るのかもしれない。どっちにしろこの峰には登っておいたほうがいいだろう。というのもこのコースではここから尾崎山の直前までが唯一展望の開ける場所だからだ。特にこの930m峰は植林地がまだ若いので眺めがいい。この日は雨だったが、霧の中から見える黒い山並みは、むしろ晴れた日より巨大に見えた。

さて、尾崎山への尾根道は西側が開けて気持ちいい、鹿留川が小さく見える。再び林の中に入るとほどなく尾崎山だった。三角点の横に小さな山名表示がひとつ。展望無し。

あとは古渡へ降るのみ。テレビアンテナのある所からは電線にそって降りる。思ったより急な下りだった。傾斜がゆるくなって、ごく小さな天満宮の横に降り立った。ちょうど正午だった。

東桂駅から谷村町駅まで、富士急行線の車窓からの都留の街を久しぶりに眺めた。大学の校舎の上には、今登ってきたケツ山が顔を出していた。電車が谷村町の駅に着いた。車で駅前を通ることはあっても、この駅に降り立つなんて何年ぶりだろう。大学の周辺はこの10何年かで、劇的なほど変貌したが、駅前はあまり変化がない。

予報と裏腹に午後になって天気が回復してきた。薄日さえ射してきている。「行いが悪いからって言うけど、やっぱり俺達、この街であんまりいいことしなかったってことだろうなあ。」

ともかく昔馴染みの駅前の中華料理屋でまっ昼間からの打ち上げ。過ぎ去りし青春の日々に乾杯。母校の裏山、ケツ山に乾杯。

1993年11月11日

谷村町駅(タクシー一○分)文台山登山口(二五分)主尾根(五五分)文台
山東峰(五分)西峰、三角点ピ−ク(一時間)九三○メートル峰(二五分)尾
崎山(一五分)アンテナ(一五分)古渡天満宮(二五分)東桂駅

二万五千分の一地形図=都留

アドバイス

山登りの面白さとしては、絶対にこのコースを逆にたどるべきだと思う。メインの文台山を最後にできる事.尾崎山の先から目指す文台山を見ながら歩ける事。朝出発すれば昼頃文台山頂でのんびり昼食が食べられる事などなど。細野からは交通の便が悪いが、谷村町まで歩いたってしれている。ただし古渡(こわた)の登山口には全く何の表示もない。逆にいえば、そこがまた面白い。細野からの文台山ピストンだけなら、もはや地図は必要ないくらい整備されている。

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