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            淡雪山(四月七日)

甲府駅の北側の興因寺山を山村正光さんの『中央本線各駅登山』(山と溪谷社)で知って以来、この辺りの里山をぶらぶら歩くのが春の楽しみのひとつとなった。

というのも、春の訪れの遅い御坂峠に暮らす身には、いち早く春の息吹を感じられるのが嬉しいというのもさることながら、初めてこの山を訪れた四月の末、この山から淡雪山への途中の伐採されて数年を経た山腹にタラの木の大群生があるのを発見したからであった。

すでにタラの芽は大きくなり過ぎていたが、採られたあともなくすくすくと育って、今時こんな里山にこんな所があるとはまさに灯台下暗し。すでに県内にかなり私有していたタラの木の林のリストに書き加えた
ものだった。

その翌年、頃合いを見はからって出掛け、膨大な量を収穫した。自分で食べる数など知れたものだが、次に来る人の為に残しておいてあげましょうといった聖人君子のような真似は決してできはしない。二番芽こそ採りはしないが、凶悪な棘をびっしりつけて、いかにも猛々しく天に突き出しているタラの芽には、畜生、許してはおけないと思わせるところがある。ちょうど食べ頃の芽はすべて採ってしまって、仕事仲間と食べたり人に配ったりする。僕が地獄に堕ちた時、鬼に追われる針の山はタラの木の棘でできているに違いない。

数ある山菜の中でもタラの芽ほど季節感のあるものはない。今は栽培物も出回っているが、棘の少ない、いわゆる雌ダラを改良して栽培しているらしく、色は鮮やかな緑で棘もなく、もやしのようなものだ。雌ダラは自然の中にもあるが、数は少なく、棘だらけで赤黒く猛々しい雄ダラの迫力はない。風味も雄ダラには劣るようだ。ましてや栽培物など言うまでもあるまい。だいたい、藪に分け入って自分で採ったからこそ風味も高まろうというものだ。

しかし、タラの芽を目的として山へ入るなんて本当は僕の美学に反する。山登りの途中に偶然タラの林を発見して少し収穫する位がちょうどいいのである。獲物が目的の登山は堕落のような気がしてならない。とはいうものの、春の藪から天に突き出すタラの芽の姿を思うといてもたってもいられなくなる。絶えてタラの木なかりせば春のこころはのどけからまし、といったところか。

好事魔多し。一年おいて訪れた、かのタラの林には侵入者の姿が。甲府駅から見て、北をさえぎる壁のようになったこの山は、登ってみるとその向こうは平地で、また人里が拡がっている。段々畑のようになっているわけだ。当然車道が通じていて、裏から回れば難なく達することができるのである。

車を使えばほとんど歩かずにすむ今どきうそのようなタラの林がそういつまでも平穏無事を保っていられるはずはなかった。しかも甲府駅から目と鼻の先である。わかってはいても悔しい。誰に断って人の畑に、と理不尽なことを思ってしまう。こんな場所でのはち合わせはばつが悪い。先入者に分がある。隅の方で少し収穫してこの時は帰った。

例年より一週間近く春の訪れの早かった今年、甲府盆地の桃も見頃を迎え、そうなるとそれを巡る山々を歩いてみたくなる。一宮町の京戸川扇状地の上流に拡がる山並みが、桃色の海とその上に幻のように連なる残雪の南アルプスを眺めるには絶好のスポットを提供してくれる。

朝から雨だった。一応山支度をして甲府盆地へ下った。一宮町の桃畑は満開と言っても良かった。桃は散りぎわにもっとも色が濃くなるらしいが、これは咲きはじめから散るまで毎日のように見ていなければわからないだろう。

桃畑の真ん中に止めた車の中で朝食とした。小雨の桃畑を傘をさしてそぞろ歩くのも悪くないが、赤ん坊を背負ってとなると気が重い。この辺りの山もほとんど登ってしまって新味はない。そんなことで早々と諦め、朝食を終えると甲府市街へ繰り出した。

古本屋を物色していると、皮肉なことに雨が上がって空が明るくなってきた。そうなると、これから登れる山はないだろうかと性懲りもなく考えてしまう。そんな時、十日も春が早いなら、かの甲府北山のタラ林も、もはやわが狩猟欲をそそる状態になっているのではなかろうかと悪い考えが頭に浮かんだ。

弁当を買うと昇仙峡へ通じる和田峠へと車を走らせた。千代田湖を左に見て帯那の集落に入る。南側の小高く盛り上がった林にしか見えない部分が甲府市街から見ると北側を区切る山並みになるわけだ。

大正池のほとりの金子峠手前まで車が入ってしまう。渓を背負ってものの十分も歩けば白砂青松の淡雪山。晴れていれば農鳥岳から甲斐駒ヶ岳までずらっと並ぶ展望の山だ。

この山中の白砂青松は、すぐ向かいの阿梨山付近にも同じような場所があるし、その向こうの昇仙峡の弥三郎岳にもある。このあたりの山の特徴だろう。

山が見えないのなら下界を眺めるしかない。白く拡がる盆地の底の甲府の街を見ながら食べる、なんの労力も伴わなかった山上の昼飯も、下界を見下ろしての快感はそれなりにあって、同じ出来合いの弁当でもひと味もふた味もうまい。

ただ、タラの林を点検に行こうという邪な考えは、明るくなりかけた
空が再びどんよりと重くなっては、つい目と鼻の距離を歩く気も失せてしまった。何となく自分の独占欲のようなものにも腹が立ってきた。山は僕に色々なものを与えてくれるが、それをなりわいとしていない以上、あまりにそれが具体的で即物的だと自分の中の山への気持ちが無垢でなくなる。

ただ見ること、ただ聞くこと、ただ触れること、ただ嗅ぐこと、ただ踏むこと、そんなことが目的の登山でありたい。しかし、言うは易し行うは難し。

遠望はないから、見下ろす甲府盆地をバックに渓の写真を撮って下山する。所要五分あまり。散歩というのにもはばかられる春の淡雪山だった。

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