笹子雁ヶ腹摺山(笹子)

笹子雁ヶ腹摺山は、甲府盆地側から見るときれいな破風形で、ゆえに笹子御殿とも呼ばれる。今では、破風形の屋根の両側に大送電鉄塔が立って、まるで山が送電線の鉢巻をしているように見える。

甲州街道最大の難所、笹子峠の道がこの山の西を越えていることからも、付近の山々の険しさが想像できるというもので、ことに笹子側の麓からは山々が頭の上に覆いかぶさってくるように感じる。

今冬はほとんど雪も降っていなかったし、南斜面の登山だから、その心配はいらないはずが、直前にかなりの積雪となってしまった。雪が降って3日目なのでトレースはないだろうと思っていたが、1人か2人分の足跡が頂上まで続いていた。白い雪と青い空、小粒とはいえ雪山登山の気分は上々である。

甲斐大和駅での合流組2人を加えた総勢6人は、頂上直下の急斜面の、はや腐りかけた雪にてこずりながらも昼過ぎに登頂を果たした。以前にくらべると灌木が伸びて眺めを隠しているが、それでも山梨県の郡内地方と国中地方を振り分けに見る展望は健在で、雪の頂上を独占しての長い昼休みとなった。

笹子峠を経て帰ろうという計画だったのを、この雪ではおそらく時間がかかりすぎる、往路を戻るのが安全だろうと考えていたが、頂上直下の腐った雪を見たら、むしろたっぷり雪のある稜線を西に下り、送電鉄塔から南に伸びる尾根を捕まえたほうがいいと考えが変わった。

稜線には動物以外のトレースはなかった。乾いた雪を蹴散らして一気に下る。考えたとおりの下山ができ、矢立の杉の見物と旧甲州街道を歩くおまけまで加わったが、最後の凍った車道歩きがもっとも危険だったという、いらぬおまけまでついてしまった。

小谷温泉

暖かい地方の山でも登ろうかと計画した湯河原1泊山行は人数が集まらずに中止となった。そこで、かねてロッジの常連のお客さんに車を出すことを頼まれていた小谷温泉行きをその週に組み入れ、これを木曜山行の代案とすることにした。名にしおう豪雪地帯に真冬に行こうというのだから、当初の計画とはまるで反対である。スノーシューは一応持っていくが、最初から主目的は温泉と雪見酒である。

500年近いという長い歴史を持つ小谷温泉の元湯「山田旅館」の19代の主人、山田寛氏の米寿と別館の完成を記念してまとめられた『小谷温泉讃歌-山田寛・雪の中の青春』という本がある。平成になって間もないころの出版だ。私もその本は随分前にいただいていて、ぱらぱらとめくってはいたが、この機会にと思って出発前日に精読した。

この本を、ある縁からライターとして担当したのがロッジの常連、泉久恵さんで、その泉さんの、山田旅館への久しぶりの旅に我々が便乗したというのが今回の小谷温泉行のいきさつであった。

私にとっては、神城より北へ車で行くのは初めてであった。道路状態が心配だったが、豪雪地帯だけにかえって道路の除雪は行き届き、小谷温泉までほとんど黒い道路のまま到着した。

しかし、事前に地図を眺めて、ちょっとこの裏山までスノーシューで、なんていう考えは、旅館の裏側に張り出した数メートルの積雪を見て、まるで甘かったことを知った。さらにはちらちらしていた雪がしだいに本降りになるに至っては、もう外で遊ぼうという気は失せてしまった。

山田旅館は、本館と新館が木造三階建てで、建て増しを繰り返した古い旅館の例にもれず、中は迷路のように入り組んでいる。60室もあろうかというのに、オフシーズンで我々のほかに誰もいない。これが満室になったらさぞにぎやかだろうと思われた。結局この日、夕方に到着したふたり以外には他の客はいなかった。

別館地下の風呂、そして本館の風呂と、風呂めぐりが始まった。それらはわずかに泉質が違うという。普段は一度入ったら充分の私も、古色蒼然とした本館の風呂場には感激して、3回も入浴することになった。

泉さんの顔というものだろう、テーブル狭しと並べられた夕食のご馳走には仰天、残してはまずいと必死で食べたが、力及ばなかった。おかげで、食後の酒はほとんど身体に入る余地が残っていなかった。コタツで寝転んで、何回も繰り返されるオリンピックのスケート競技のメダル騒ぎを罵倒しているうちに力尽きて早めの就寝となった。

翌朝4時半、道路の除雪をする重機の音に目が覚める。さてはかなり降ったのだろうかとうつらうつらしているうちに夜が明け、外を見ると車が雪に埋もれていた。

朝風呂に入ってまたご馳走をいただく。チェックアウトの時間が過ぎるまで長居して、雪の小谷温泉をあとにした。国道に出る頃、背後の雲が少し取れ、雨飾山の一部を望むことができた。

甲東不老山(上野原)

山梨県でも大月から東は私のあまり知らない山域で、それは駐車場所の確保に苦労することが原因となっている。細かい谷が入り組んで、車道は狭く、山にへばりつくように家々が建つところでは、車1台分のスペースでも貴重である。

地図を眺めていて、談合坂SAから至近の距離に甲東不老山があるのに気づいたのが今回の計画を立てたきっかけだった。これだけの大駐車場を利用しない手はない。

SAを出て、仲間川の谷へ降りていくわずかの間に全員上着を脱ぐことになった。最初から上着などない私はTシャツ1枚になる。家々の庭には梅が咲き、同じ県内でも我々の住所より季節がひと月はやい。

杉や檜の植林地に通じる登山道は、おそらくそれらを植えた作業道を流用したものだろう。急な尾根をうまくからんで、歩きやすい。中腹にあるお堂の前以外はほとんど展望もないまま、不老山の頂上へ着いた。南が切り開かれ、べったりと雪のついた富士山がぼんやりと眺められた。

なんたって名前がいいじゃないの、と参加者一同不老の誓いを立てた。私はついでに不労の誓いも立てた。しかしあまりに不労だと家から追い出されて浮浪の身になるやもしれぬ。

時間が早かったので、北へ高指山へ向かい、今日の最高点で昼食とした。昨年歩いた権現山の長い尾根が見渡せた。

高丸と呼ばれる突起は気づかぬままに通り過ぎ、暗い植林地を下って和見峠へ着く。どうせここまで来たのだからと、藪尾根をたどって瀬淵山にもついでに登ってきた。頂上の立派な社には驚かされた。

瀬淵山の北西の鞍部を乗り越す径は下に行くほど怪しくなるという珍しい径だった。それでもわずかな距離で人家の裏へ出た。里道を歩くのは、行けるところはぎりぎりまで車を使う我々の山行では珍しい。知らぬ土地の生活道を歩くのもたまには悪くはない。しかし、目の前に同じ高さでPAがあるというのに、いったん谷に下らなければならないのが疲れた足には大儀であった。

恩若峯(塩山・大菩薩峠)

塩山あたりから東を向くと、恩若峯から南西に延びる長い尾根が勝沼方面に向かって標高を落としていく姿は誰の目にも映っている。大菩薩の前衛の山というわけだが、人気の山域の手前に歩く人もまれな山がいくらでもあるのはよくあることである。つまり、目には映ってはいても注目はしないのである。こんな山並みに注目するのは変人ということになる。

源次郎岳から恩若峯を経て勝沼に終わるこの尾根の前半、すなわち源次郎岳から恩若峯までを歩いたのはもう16年前である。恩若峯から勝沼までを歩いて懸案を完歩しようと、自分の希望で木曜山行の計画に入れることにした。

木曜日の天気予報があまりに悪いので、水曜日に都合がつく人で出かけることにした。

この尾根の末端はお寺の墓地である。忘れられたような古い墓碑の裏手から急に登るとすぐ平坦になって、「蚕影山」と彫られた石碑が倒れている。達沢山の尾根にも同様なものがあった。かつての養蚕全盛期をしのばせる。

赤松の多い藪尾根をたどる。途中、何度か現れる伐採地からは甲府盆地がすっかり眼下だが、遠望はきかない空模様だった。里山らしく、下界のさまざまな音が聞こえてくる。

いくつもの突起を越え、ようやく恩若峯に達したのは出発から3時間たっていた。頂上は暗いヒノキ林なので、一段下がったところで昼食休憩とした。


 「塩山駅の後にこんもりとした小さな塩山、ゴチャゴチャ固まる市街の有様、その家並の間へ入り込んでいく里道、そこから四方に放射される村道などが歴々と指摘された。今プラットフォームを離れた長い貨車が、白煙を立てて音もなく重川の鉄橋を滑って来る有様など、深い興味をよび起こした。
『人間界もこのくらい空間を隔てて見ていると面白いなあ』
 ふたりそろった人間嫌いは悟り切れない嘆声をもらしながら、しばらく佇立して端山に隠れるまで、貨車の行方を見送った。」

大正時代、恩若峯を歩いた河田驕iかわだ・みき)の紀行文である。

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